川の流れに/1 ◇「逆の立場になるとは」

黒岩基次さん=森田剛史写す

 赤城山麓(さんろく)に広がる群馬県北橘(きたたちばな)村。利根川を渡るJR上越線の鉄橋近くに「落合簗(やな)」がある。「年に数回食べに来る客だった自分が、逆の立場になるとは……」。今シーズンの営業を終えた黒岩基次さん(55)は、忙しかった「初めての夏」を振り返った。

 簗とは、川の一部に木や竹で組んだ堰(せき)を設けて流れを引き込み、魚を捕まえる古式漁法。「古事記」にも登場する。近くに建てたあずまやでアユ料理を出す「観光簗」が、利根川にはまだ数カ所残っている。

 「落合簗」も、その一つ。岸から川面に張り出したあずまやには、ござ席、テーブル席合わせ約150席。前の経営者が事業に失敗し、00年に閉鎖されたが、サラリーマン生活にピリオドを打った黒岩さんが今年、3年ぶりに復活させた。

 夏のある日。午前6時過ぎ。黒岩さんが簗に姿を見せた。晴れ上がった空の色に「今日も忙しくなりそうだ」とつぶやく。竹組みの上で跳ねる雑魚やアユを拾い、すき間に詰まった小石やごみを外す。「簗は川の一部。手入れを怠ると埋まってしまう」。簗にかかる魚はいけすに放たれ、子どもたちを喜ばせる。

 客足のピークは正午過ぎ。「お客さん1人追加」「ご飯のお代わりを」。夏休みの家族連れや団体客でほぼ満席。黒岩さんは流れる汗をぬぐう間もなく、厨房(ちゅうぼう)に向かって声を張り上げた。妻咲江さん(52)も、3時間以上、立ちっぱなしで客席の間を駆け回っている。

 炭火をおこし、くし刺しのアユを立てて焼くドラム缶製のいろりは、一度に約60匹を焼けるが、3台がフル稼働しても間に合わない。「遅い」とクレームの出たテーブルに走っていき頭を下げる。「炭火焼きなので30分ほど下さい。作り置きはしないので。焼き立ては味が違いますから」。職人の顔つきになっていた。

 「去年までは、暑いのか寒いのか分からないような生活だった」。空調の利いた室内で、濃紺の背広を着て書類に判を押す毎日。黒岩さんの前職は、県内の中堅金融機関、北群馬信用金庫(本店・同県渋川市)の監査室長。役員待遇を目前に、早期退職を選択した。

 まさに、川に身を投じるような、55歳の転身だった。【藤田祐子】

 この連載に対するご意見、情報をお寄せください。ファクスは03・3212・4970、Eメールアドレスはt.kei.desk2@mbx.mainichi.co.jp



(毎日新聞2003年10月15日朝刊から)

NO.2へ